Il seguente articolo, apparso sul nostro blog in italiano all’inizio di questa settimana, è stato tradotto da alcune nostre studentesse giapponesi durante un’esercitazione in classe (livello intermedio). Ringraziamo:
Tomoko Igarashi
Yumiko Saigo
Ritsuko Kobayashi
Tomoko Hoshikawa
Tomko Minoguchi
Satomi Azuma
1861年イタリア統一の年、2500万人の内の20万人のイタリア人だけが正しくイタリア語を話していた。
残りの人は今でも使われている数ある、それぞれ違う方言を話していた。
1861年までは、貴族の人たちは、フランス語を好み、聖職者は当然ながら、ラテン語を好み、庶民は、ダンテ・ペロラルカ・ボッカッチョが文章の中で使っていた、トスカーナの庶民の言語を好み、それが今ではイタリアの標準語となった。
学習については当然公立の学校の中で行われた。
しかしそれは全ての子供達に義務付けられておらず、中学校は3年間しかなかった。
子供達はイタリア語の基本しか学ぶ手段を持っていなかった。
兵役の義務あった。21歳の若者はイタリアのほかの地区で1年間兵役につかなければならなかった。兵舎での生活ではイタリア語での伝達を強制されたが、しかし第一次境対戦中いくつかの作戦は兵士の間で言語的な無理解があったように見えた。
第3歩はファシズムの20年間に生じた。ファシズム政権は彼らの思想の普及のために新聞、ラジオ、映画を用いたため、イタリア人は初めてほぼ毎日彼らの言語を聞くようになった。ファシズム当局がイタリア化を導入したことで、いくつかの新しい言葉、たとえばフランス語の”chuffeur”に変わって”autista(ドライバー)”や、”Mickey Mouse”の名前ではイタリアに入ることの無かった”Topolino”などを作った。第二次世界大戦の間、ムッソリーニが失脚した後、イギリスから世界で実際に起こっている情報をイタリア国民へ伝える “ラジオ・ロンドン”に同調するためイタリア人はラジオを聞き続けた。
より重要な段階は1954年1月3日である。イタリアの全ての世代のための正真正銘の模範であるイタリア・テレビが生まれた。1959年から1969年間のRAIについて考えればよい、初等教育のもくろみと共にカリキュラムに至るまで放送した。実例の題名としては”Non e’ mai troppo tardi”
実際、テレビによる学習はローマかミラノに由来し、その影響でトスカーナ風のイタリア語は影を潜めた。70年代の終わりから民放の出現とともにテレビはイタリア語を貧しくさせ、堕落させるという非難も受け、テレビの中で話されるイタリア語は常に厚みが無く、未熟で間違いに満ちたものとみなされた。
Commenti recenti